大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和58年(う)566号 判決

被告人 鈴木文博

昭二四・九・一九生 洋服販売業

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中一〇〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人平岩敬一が差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官興野範雄が差し出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一点(法令適用の誤りなどの主張)について

なるほど、原判決は、職務質問に伴う所持品の提示要求に際し、被質問者に対する有形力の行使は、任意の提出を促す限度に止めるべきであるところ、本件有形力の行使は、その限度を超えた疑いがある、という。しかしながら、職務質問に附随して行う所持品検査は、所持人の承諾を得てその限度でこれを行うのが原則であるが、捜索に至らない程度の行為は、強制にわたらない限り、たとえ所持人の承諾がなくても、所持品検査の必要性、緊急性、これによつて侵害される個人の法益と、保護されるべき公共の利益との権衡などを考慮し、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容される場合がある、と解すべきことは、累次の最高裁判所判例の判示するところである(昭和五二年(あ)第一四三五号、同五三年六月二〇日第三小法廷判決・刑集三二巻四号六七〇頁、昭和五一年(あ)第八六五号、同五三年九月七日第一小法廷判決・刑集三二巻六号一六七二頁参照)。したがつて、その有形力の行使が、たとえ、原判決のいうように、任意の提出を促す限度を超える場合であつても、それが「強制」、すなわち、被質問者の意思を制圧し、その身体等に制約を加えて強制的な所持品検査をすることにより、被質問者に対する容疑確認の目的を実現しようとする場合に当たらないかぎり、必要かつ相当と認められる限度内で許容される場合があるといわなければならない。

そこで、本件有形力行使の適否について検討すると、原判決の挙示する諸証拠によれば、それは、次のような経過に基づくものであることが認められる。

神奈川県警察本部自動車警ら隊所属の巡査部長佐々木義明と司法巡査井川佳春の両名は、昭和五七年二月一四日午後九時三〇分頃、かねてから、そこが覚せい剤の密売所であるという情報を得ていた京浜急行電鉄黄金町駅に近い横浜市中区初音町二丁目四二番地所在の「スナツクスエーデン」の附近に張込み、同店に出入りする挙動不審者を見張つていたところ、同日午後九時五〇分頃、運転者だけが乗つている一台の乗用車が、右「スナツクスエーデン」の前路上に停止したのを目撃した。右佐々木巡査部長は、右の乗用車の運転者が車両を道路の側端に寄せることなく、その中央部分に駐車させたまま車両から降りようとしていることから、同人が、同店に飲食するために来た客ではなく、覚せい剤を買つた後、直ちにその場から立ち去ろうとしているのではないかという疑いを抱き、直ちにパトカーに乗つて、間もなく右の場所から発進してきた右の乗用車を追跡した。右の乗用車はその場所から、約二キロメートル離れた原判示の場所に到つて停止したため、右井川巡査と佐々木巡査部長は、直ちにパトカーから降りて右乗用車に近寄り、これを運転していた被告人に対して降車するよう求めるとともに、「黄金町に停止して何をしていたのか。」「所持品を見せて貰えないか。」といつて職務質問を開始した。これに対し、被告人は乗用車から降りたものの、右手を着ていた上衣の右ポケツトに突込んだまま、その乗用車の後方から、助手席側の方向に歩きはじめた。それを見た佐々木巡査部長らは、被告人に対する覚せい剤所持の疑いを一層強めるとともに、被告人が、所持している覚せい剤を捨てたり、あるいは、その場から逆げ出したりするのではないかと考え、これらを防止するため、それぞれ被告人の両腕を掴んでその場に停止させた。ところが、被告人は右手を上衣の右ポケツトに突込んだまま、大声で、「曜子来てくれ、助けてくれ!」などと叫んで路上に座り込んだ。そこで、佐々木巡査部長らは、「ポケツトになにが入つているのか。」「出して見せなさい。」といつて説得し、交々上衣の右ポケツトに突込んでいる被告人の右手を掴んで、これをそのポケツトから出すよう促すために強く引張つた。しかし、その際、佐々木巡査部長らが加えた力の程度は、いずれも、被告人が右の要求を拒否する余地を与えないほど強いものではなかつた。その結果、被告人は渋々右手を上衣右ポケツトから出したが、その際、そのポケツトから小銭入れと二つ折りの財布とが路上にこぼれ落ちた。それにもかかわらず、被告人は依然としてこぶしを握つたままでいるため、佐々木巡査部長がこぶしを開いて見せるよう求め、それを開かせてみたところ、手のなかには、何も存在しなかつた。そこで、佐々木巡査部長らは、路上に坐り込んでいる被告人をその場で立ち上がらせたうえ、さきにポケツトから路上にこぼれ落ちた被告人の所持品を拾い上げてみたところ、その所持品の附近にビニールの袋が一個落ちているのが発見された。それは、手で握りしめたような跡がつき、しわくちやになつた状態であつた。これらの状況から、佐々木巡査部長は、被告人がポケツトから右手を出した際、右の小銭入れなどと一緒にそのポケツトから右のビニール袋が路上にこぼれ落ちたものと判断し、かつ、そのビニールの袋のなかに入つている白色の粉末は、その性状から覚せい剤であると認めた。そこで、佐々木巡査部長は被告人に対して、警察署まで同行を求めたが、これを拒否されたため、覚せい剤取締法違反罪の現行犯人として、被告人をその場で逮捕するに至つた。

以上の事実が認められ、右の認定に反する被告人の原審公判廷における供述は措信しがたく、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。してみると、本件の所持品の提示要求は被告人の意思に反するものであり、また、その手段である有形力の行使は、被告人に対して任意に所持品を提示するよう促すために必要とされる限度を超えるものであるにせよ、それらは、いずれも被告人にとつて、いまだ所持品の提示要求を拒否する余地のないほど強いものではなかつたのであるから、これらが前記「強制」にあたるということはできない。そこでさらに、右の有形力の行使が、果たして所持品検査の手段として許容される「必要かつ相当と認められる限度」を逸脱しているか否かの点について検討すると、原判示のとおり覚せい剤所持の容疑が濃厚であるにもかかわらず、被告人が容易に所持品の提示要求に応じようとしないばかりか、大声で助けを求め、あるいは、その場から逃げ出そうとさえしかねない当時の具体的状況下において、佐々木巡査部長らにとつて、被告人に対する覚せい剤所持の容疑を確めるために、他に、より適当な代替手段が存在したとは考えがたいから、右の有形力の行使が、必要最小限度を逸脱したものとは認められない。また、右の有形力の行使によつて得られる覚せい剤所持の容疑が確認できる利益と、これによつて失われる行動の自由やプライバシー侵害の不利益とを比較衡量しても、均衡を失しないことは明らかである。それゆえ、右の有形力の行使は、いずれも必要かつ相当なものとしてこれを是認することができる。それにもかかわらず、右の有形力の行使がその許容されるべき限度を逸脱したものとして、これを違法と認定した原判決には法令の解釈適用を誤つた違法があるといわなければならない。しかしながら、原判決が原判示覚せい剤原料の証拠能力を否定すべき場合には当たらないとして、これを事実認定の証拠に供したのは、結論において正当な措置であり、そこにはなんらの違法も存しない。

また、原判決挙示の証拠のほか、記録によつて認められる被告人の現行犯人逮捕手続に、なんら違法のかどを発見することはできない。そして、被告人が任意に提出した尿につき、覚せい剤が含まれているか否かの鑑定を実施した技術吏員川口公明が、被疑事実の要旨の記載されている鑑定嘱託書に基づいて鑑定を実施し、かつ、その鑑定に際し、資料である尿の全量を使用したため、再度同様の鑑定を実施する余地を失わしめたという事情は、いまだ、右鑑定の結果を記載した原判示鑑定書の証拠能力を否定すべき事由とはならない。それゆえ、原判決が右鑑定書を事実認定の証拠に供した点に所論のような違法はない。論旨はいずれも理由がない。

控訴趣意第二点(事実誤認の主張)について

しかし、原審の証拠の取捨選択の判断について、経験則に反する違法な点を見出すことはできない。そして、原判決の挙示する諸証拠を総合すれば、原判示事実は優にこれを肯認することができる。右認定に反する被告人の原審公判廷における供述は措信しがたく、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。論旨は理由がない。

控訴趣意第三点(量刑不当の主張)について

所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調の結果を斟酌して検討するに、本件各犯行の動機、罪質、態様、及び被告人の性行、前科、ことに、被告人は昭和五五年四月二二日横浜地方裁判所において、覚せい剤取締法違反(所持と使用)の罪により懲役一年、三年間執行猶予に処せられたにもかかわらず、その執行猶予の期間中、再び本件各犯行に及んだもので、覚せい剤嗜癖と、これへの依存性の深まりを窺わしめることなどにかんがみると、その犯情はよくなく、被告人の刑責を軽視することは許されない。してみれば、肯認しうる所論指摘の被告人に有利な情状を十分考慮に入れてみても、本件は刑の執行猶予が相当な事案とは認められず、刑期の点においても、原判決の量刑は、まことにやむをえないところであつて、これが重きに失して不当であるとはいえない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条を適用して当審における未決勾留日数中一〇〇日を原判決の刑に算入することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 寺澤榮 片岡聰 仙波厚)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例